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「小島剛一」の早合点と苦しい言い訳

小島剛一氏の人となりがわかる事例がまた出てきました。

2018年6月1日、「落とし文」という表題で、理恵さんという人が「F爺・小島剛一のブログ」に書き込みました。

これは、「新型の『腸炎』を続々と創作する『黛まどか』」という小島氏の2018年5月23日の記事に対して、書き込まれたものです。

小島氏は5月23日に侮蔑表現を使って黛まどかさんの悪口を書いています。理恵さんが指摘したのはその文章の最後のほうで、こうでした。

「落し文」って何 ?

「落(おと)し文(ぶみ)」は、日本語では、昔々の風習で〈公然とは言えないことを巻紙などに書いて路上や屋内に落しておくもの〉です。「落書(らくしょ)」とも言います。
現代では「便所の落書き」や「匿名の手紙」「ネットの匿名掲示板」「匿名悪口ブログ」「他人のブログへの匿名嫌がらせコメント」などが昔の「落し文」の役割を果たしています。
「便所の落書き」は、定義からして、誠意の欠片(かけら)も無く、無責任です。「お大師様」(= 空海(くうかい)和尚(わじょう)=弘法大師)が「便所の落書き」などするはずがありません。
「黛まどか」が拾ったと言う「落し文」は、語義の取り違えも含めて、似非遍路の特製のパラレル・ワールドにしか存在しません。そんな物の実在を信じるのは、「黛まどか教」の狂信者だけです。



小島氏は「落し文」を落書きだと早合点したのです。おそらくネット上で検索して一番最初に書いてある語義を、まるで以前から自分が知っていたかのようにすこし表現を変えて写したのです。

実は、「落し文」は俳句の世界ではれっきとした季語で、オトシブミという昆虫とその昆虫が巻いた葉っぱすべてを含むものを洒落で「落し文」というらしいのです。「オトシブミの揺りかご」という分かりやすい言い方もあります。

小島氏はおそらくオトシブミを知らなかったのです。それは恥ずかしいことではありません。おそらく70歳になっても知らない人は少なくないでしょう。

理恵さんのコメントはこうでした。全文引用しましょう。

小島先生、「落し文」ですが、「黛まどか」という人がFBに載せた写真から判断して、昆虫のオトシブミの落とした葉っぱを拾ったのだと思います。ただその場合、この卵もしくは幼虫の入った葉っぱを「文」と表現するのは奇妙な感じがしますし、そもそも「落とし文」と書くべきでは?と混乱しています。



小島氏はこんな反応を示しました。

『奇跡の四国遍路』の163ページに鉤括弧に入れて「「落し文」を三つ拾った」と書いてあるのは《もしかしたら「昆虫のオトシブミの揺籃」のことか》とは思いましたが、明確に「昆虫の」とは書いてありません。

一言半句も信用できないと判っている「黛まどか」のFacebookのページを仔細に検分する時間はF爺には無いので、確認は後廻しにし、言及も控えました。左下の「オトシブミの揺籃らしいもの」の画像には最初、目が行かなかったのです。今回は確認しました。「理恵」さん、お知らせ、ありがとうございます。



小島氏は、《もしかしたら「昆虫のオトシブミの揺籃」のことか》とは思いました、というのです。非常に苦しい弁解です。小島氏は、自分は博学であるという奇妙な自尊心があるので、「そりゃ知りませんでした」と素直に言えない性格なのです。こういうのを「知ったかぶり」と言います。

小島氏は、黛まどかさんが語義を取り違えたというのですが、取り違えたのは小島氏のほうでした。「取り違えていました」と書けばいいものを、それが書けないのが小島氏らしいところなのです。

この後の小島氏の文章に注目です。

昆虫のオトシブミの落した「卵または幼虫入りの葉っぱ」を拾って都会に持ち帰ったのだとすれば、「黛まどか」は、その昆虫の生育と繁殖を妨げたのです。生命を尊重する心が欠けていることを示す行動です。遍路が守るべき「十善戒」の一番目の「不殺生」(= みだりに生き物を殺さないこと)の破戒です。


坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、といいます。小島氏は、オトシブミを持ち帰ることは「生命を尊重する心が欠けている」というのです。こういう飛躍した論理で行くと、子どもの昆虫採集はどうすればいいのでしょうか。

自分の非を認めず、自分を律することができず、つい過剰な文章表現を書いてしまう人、それが小島剛一という言語学者なのです。

自分が無視されつづけていることに我慢ならないのかもしれませんが、一連の黛さん批判の記事に反応している人はほんの一握りの人ですよ、ほとんどがイエスマン。小島氏の著書を評価してきた本来のファンはもう唖然としています。もういい加減にして言語学の領域に戻って記事を書いてください。お願いです。
小島剛一氏は、本ブログの記事を気にしていたようで、6月21日になって自分の文章を以下のように改めました。

鉤括弧に入れて〈「落し文」〉と書いていることから考えて見ても、おそらくそうでしょうね。ただ『奇跡の四国遍路』の163ページの記述でそのことを明確に表現していません。

ご指摘を受けて本文の末尾に追記をしましたので、ご確認ください。

この件でF爺が憫(あわ)れに思った点は、二つです。(以下略)



「《もしかしたら「昆虫のオトシブミの揺籃」のことか》とは思いましたが」を削除しています。訂正したことは当然でしょうが、なんとも姑息な対応です。

自分が早合点したことを認めながらも、その非は認めないで、相変わらずの著者批判です。きちんと謝ることができない人のようです。困ったことです。つい知ったかぶりで書いてしまう悪い癖は今回の件で明らかになったかと思います。

こういうことを繰り返しているから、一般人として信頼を得られない。どれだけ立派な論説を書いていても、言語学者の間で相手にされなくなるわけです。
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